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アーサー・ラッカムのシンデレラ

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欧米においてシルエット技法がイラストレーションに用いられるようになったのは、18世紀後半からと言われています。 それまでは主に肖像画の代わりとして使われていたものが、芸術的な表現のために使われるようになりました。 作家ジェーン・オースティンのシルエット(18世紀) 写真が一般に普及するまで、紙に横顔を切り抜く“切り絵”は手軽なポートレートとして重宝されました 今回とりあげたアーサー・ラッカム(Arthur Rackham, 1867-1939)の"Cinderella"も、このシルエット技法で描かれた名作のひとつ。 ですが、アーサー・ラッカムがこの表現を採用したきっかけは、純粋に芸術的な動機からではありませんでした。 この本が出版されたのは1919年。第一次世界大戦による物資の不足は出版業界にも影を落とし、かつてのように豪華な挿絵本を作ることは出来なくなっていました。そこで考えられたのが、シルエットで挿絵を描くこと。これならインクの色も少なくて済み、コストも大幅に抑えられる──いわば苦肉の策でした。 しかし、そこは流石に挿絵黄金期の中核を担ったアーサー・ラッカム。課せられた“制限”が、かえって生き生きと物語の世界を表現しています。 タイトルページ フルカラーのイラストは、左側にある口絵の1枚のみ 3色のカラープレートは6枚

ノーマン・ロックウェルの「若草物語」

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古き良きアメリカを描いた画家・イラストレーターのノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell, 1894-1978)。 彼が描いた「若草物語」のイラストがあります。…といっても、これは「若草物語」を出版するために描かれたものではありません。 アメリカの伝記作家キャサリン・アンソニー(Katharine Anthony, 1877-1965)によるルイザ・メイ・オルコットの伝記、"THE MOST BELOVED AMERICAN WRITER(最も愛されているアメリカの作家)"の挿絵として描かれたものです。これは、雑誌“ウーマンズ ホーム コンパニオン”の1937年12月号~1938年3月号に連載されました。 1938年は「若草物語」の出版から70年であり、オルコットの没後50年でもある節目の年。キャサリン・アンソニーは、この年に伝記本"Louisa May Alcott"を出版しており、"THE MOST BELOVED AMERICAN WRITER"は、そのダイジェスト版だったようです。 “Women's Home Companion” 1937年12月号の誌面 毎回、ノーマン・ロックウェルによるカラーイラストが1枚と複数のモノクロのイラストが添えられていました source:eBay 描かれたカラープレートは全部で4枚。屋根裏で原稿を書くジョー(冒頭にあげた1枚)、編集者に原稿を見せるジョー、雨の中のジョーとベア教授。そして、おそらくはガーデナー家のパーティーでのジョーとローリー。この絵については、モファット家のパーティーでのメグとローリーとしているものもあり、確かに女性の顔立ちが他の3枚とは違うようにも見えますが、“ウーマンズ ホーム コンパニオン”の出版元が販売した、このイラストのプリントには"ジョーとローリー"のキャプションが付いているので、ジョーで間違いないと思います。 オルコットの伝記なのに「若草物語」の場面を描いたのは、もちろんオルコットとジョーを重ねているのでしょう。ご承知の通り、ルイザ・メイ・オルコットも四姉妹の次女であり、「若草物語」の四姉妹は彼女と彼女の姉妹をモデルに書かれました。 ジョーとローリー ジョーと編集者 ジョーとベア教授 なお、キ...

ウジェーヌ・グラッセの"美しき女庭師"たち

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スイス出身でフランスで活躍したウジェーヌ・グラッセ(Eugène Grasset, 1845-1917)。 アール・ヌーヴォーの先駆者と言われるその仕事はイラストやポスターのほか、建築、家具、ステンドグラス、ジュエリー、タイポグラフィー等々、非常に多岐にわたるため総じて“装飾家”と呼ばれています。 その彼が描いた"La Belle Jardinière"のシリーズ(1896年)。 これらは、パリにあった服飾専門の百貨店"Belle Jardinière(ベル・ジャルディニエール)"が顧客に配布するカレンダーのために描かれたものです。 ラファエロの名画"美しき女庭師(イタリア語では'La Bella giardiniera')"と同じ名前の服飾店。ウジェーヌ・グラッセが描いたのは、文字通り庭仕事をする美しい女性たちの姿でした。店の名前にかけて四季折々の花で華やかに彩ることが出来る題材は、カレンダーにうってつけだったのでしょう。 絵の中の女性たちが着ているドレスも、当時店頭に並べられていたであろう流行のスタイルが取り入れられました。 また女性の服の柄が、その月の星座のシンボルになっているほか、描かれた植物や人物の姿にも黄道十二宮への対応や寓意がこめられているといいます。 Janvier:1月 Février:2月

ケイト・グリーナウェイのティーパーティー

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イギリスと言えば、紅茶。 17世紀、中国からオランダ経由でイギリスに入って来た“茶”が、ここまで深く根付いたのには様々な理由があるようです。 曰く、ポルトガルから嫁いで来た王妃が貴族たちに広めたのがきっかけとか、コーヒーの取引ではオランダに勝てず、そんな中、当時の植民地が茶の栽培に適しており、輸入に頼らずとも自国生産が可能になったからとか、何より水質が合っていたからとか、とかとか… 近年では昔ほど飲まれなくなったとも聞きますが、それでも1日平均5~6杯は飲むのが普通と言いますから、いかに日常に欠かせないものであるかがわかります。 それゆえイギリスの芸術作品にも頻繁に描かれる“お茶の時間”──画家たちもしばしば題材にしています。 今回はその中からケイト・グリーナウェイ(Kate Greenaway, 1846-1901)の作品を集めてみました。 "Birthday Tea" 1877年 "You see, merry Phillis, that dear little maid, Has invited Belinda to tea…" (Under The Window) 1878年 "Tea Party for Two Outside" "First arrivals" 1879年

メラ・ケーラー(Mela köhler/Mela Koehler)のキノコづくし🍄

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オーストリアの画家、イラストレーターで、ウィーン工房ではデザイナーとしても活躍したメラ・ケーラー(Mela köhler/Mela Koehler, 1885-1960)。 最初に見たのが多分、冒頭にあげたキノコ帽子の子どもたちの絵でした。 当時は調べてみても画家の名前には、なかなか辿り着けず。その後、メラ・ケーラーという画家を知った時、その作品群の中にこれとよく似たポストカードを見つけ、「ではこれもメラ・ケーラーだったのか」とわかったのでした。

ローズ・オニールの広告 "JELL-O"編

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"キューピー"の生みの親で、アメリカの女性漫画家の草分け。イラストレーターで画家、彫刻家、作家でもあり、婦人参政権運動の活動家でもあったローズ・オニール(Rose O’Neill, 1874-1944)。 一時は世界一裕福な女性イラストレーターと言われるほど売れっ子だった彼女は、様々な企業の広告も手がけました。 中でも有名なのは、ゼリーの素"Jell-O"の広告。彼女のイラストは雑誌などの広告だけでなく、メーカーが無料配布していたレシピブックにも使用され、それらの冊子は今では人気の紙モノ(ephemera)として売買されています。 ローズ・オニールがキューピーを正式にキャラクターとして“Good Housekeeping”誌で発表したのが1909年。JELL-Oの広告を描き始めた時期とも重なっているため、レシピブックにもキューピーが登場、可愛らしい姿で大活躍しています。

"オレンジとレモン"

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イギリスの伝承童謡マザーグースの一篇 "オレンジとレモン"。 ロンドンの鐘の名前を順番に歌いながら、"ロンドン橋落ちた" や "通りゃんせ" のような遊びをする、イギリスでは誰もが知る歌です。 小説や映画の中で引用されることも多く、有名なのはジョージ・オーウェルの「1984年」ですが、私が初めて "オレンジとレモン" の歌を知ったのは、P. L. トラヴァースの「メアリー・ポピンズ」でした。 シリーズ3冊目『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』の中のエピソード「トイグリーさんの願いごと」で、ジェインが好きだと言う "オレンジとレモン" (ちなみにマイケルは "ロンドン橋が落ちる" をあげています)。明るく爽やかなタイトルのその歌が、ギョッとするような歌詞で終わると知ったのは、それから更にずっと後のことでした。 以下に原詞と谷川俊太郎による訳詞、小鳩くるみさんによる歌唱音源をあげておきます。 『"Oranges and Lemons" (原詞) Oranges and lemons, Say the bells of St. Clement's. You owe me five farthings, Say the bells of St. Martin's. When will you pay me? Say the bells of Old Bailey. When I grow rich, Say the bells of Shoreditch. When will that be? Say the bells of Stepney. I'm sure I don't know, Says the great bell at Bow. Here comes a candle to light you to bed, Here comes a chopper to chop off your head.』 『"オレンジとレモン" (訳:谷川俊太郎) オレンジとレモン セント・クレメントのかねはいう おまえにゃ5ファージングのかしがある セント・マーティンのかねはいう いつになっ...

貝殻の妖精たち

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オーストラリアのイラストレーター、イダ・レントール・アウスウェイト(Ida Rentoul Outhwaite, 1888-1960)。 オーストラリアの自然を背景に繊細な画風で描かれた妖精たちのイラストは、没後65年近く経った今でも多くの人々に愛されています。 ネット上でも、ちょっと検索すれば沢山の作品が出てきますが、その中でも特に人気で、よく見かけるイラストの数々…上にあげた貝のベッドで眠る妖精も、そのうちのひとつではないでしょうか。 実はこれ元々は、シェル石油でおなじみのシェル社(Royal Dutch Shell)の子会社である‘The British Imperial Oil Company(現・Shell Australia)’の宣伝用に描かれたイラストでした。宣伝用といってもポスターや雑誌広告ではなく、媒体は子どものための絵本。16ページほどの冊子に、短いお話とこの冊子のために描きおろされたカラーイラストが6枚、更にモノクロのイラストも数点入った、かなり凝ったものです。 当時、すでに著名なイラストレーターだったイダ・レントール・アウスウェイトを起用してのこの様な企画が実現したのは、The British Imperial Oil Companyがイダの地元メルボルンにあったからこそでしょう。 宣伝用に出版され、オーストラリアのほかニュージーランドでも配布されたらしい絵本は2種類。"The Fairy Story That Came True"と"The Sentry and the Shell Fairy"のタイトルがつけられています。 先に出版されたのは"The Fairy Story…"のほうで、1921~1922年頃。その後1923~1924年頃に"The Sentry and…"が出版されました。広告用の冊子ということもあり、正確な発行年はわからないようですが、その2冊とも幾度か増刷されており、それぞれ僅かに違いのある版が確認されています。 物語については、"The Sentry and…"のほうは George W. Martin 作となっていますが、"The Fairy Story…"のほうは不明です。   "T...

和菓子の見本帖

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現在、私たちが“和菓子”と呼んでいるお菓子──殊に様々な意匠を凝らしたお菓子が広く一般的になったのは、江戸時代に砂糖が普及したことがきっかけでした。 それまで砂糖はその希少性ゆえに、疲労や衰弱の薬として扱われていました。それが貿易や自給率の上昇で嗜好品として使えるようになり、それにつれて市中で菓子を商う店も増えていきます。それぞれに工夫をし、見た目も美しい菓子が競うように作られました。 ここで紹介しているのは、その時代の菓子店が作った菓子の見本帳です。 見本帳には、デザインやレシピの記録というほかに、いわゆる商品カタログという役割がありました。店は得意先にこれらを見せ(あるいは配布し)注文をとっていました。 ここにあげたものの多くは明確な発行年がわかりませんが、例えば老舗和菓子店の“虎屋”で保管されている同様の見本帳で一番古いものが1695(元禄8)年の発行といいますから(※同店の記事で1685年との記述があるものもアリ)17世紀末には、各店でこのような見本帳が作られていたものと思われます。 ちなみに虎屋の見本帳の一部は、 虎屋の公式サイト で紹介されていますが、中には今でも販売されているお菓子もあるそう。見本帳の形式はこの記事の中ほどにあげたものとほぼ同じですね。 以下、国立国会図書館デジタルコレクション(NDL)に収録されている見本帳の画像から幾つか。 【御菓子雛型 [1]】

"Hortus Floridus"

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17世紀の初め、オランダで出版された植物図鑑"ホルトゥス・フロリダス(Hortus Floridus)"。作者はクリスペイン・デ・パッセ(Crispijn de Passe または Crispijn van de Passe とも)父子です。 最初に出版されたのは1614~1916年頃。表紙には1614年の記載があります。 彼らは一族で印刷・出版業を営んでおり、父(Crispijn (van) de Passe the Elder)、子(Crispijn (van) de Passe the Younger)ともに、画家であり版画家であり印刷・出版業者でしたが、このホルトゥス・フロリダスに関しては、主に図版を描いたのは息子のほうだったとされています。 また、一部の図版にはクリスペイン・デ・パッセ(父)の次男と三男─つまりクリスペイン・デ・パッセ(子)にとっては弟たち─の署名が入っており、この本の出版には家族で携わっていたことも窺えます。 こうした初期の植物図は、純粋に学問のためというよりは鑑賞用としての役割も大きく、そのため美しい絵を描く画家とそれを再現する優れた彫刻師(彫師)が求められました。お互いにそれを外注するケースもありましたが、クリスペイン・デ・パッセ父子の場合はその全工程と、更には出版までを自分たちで行っていたわけです。 "Hortus Floridus"の図版から、一部を抜粋して以下に。